2003年8月3日  7月例会  Tar Sandor の作品について    粂 栄美子

1986年エステルハージ(1950)の純文学入門、ナーダーシュ(1942)の回想記、出版される。この大御所二人ではなく、二人に続く作家、89年以降に書かれたものを読んでいこうかと思う。

注目作家,作品としては

ザーヴァダ・パール(1954)  の「ヤドゥヴィガの枕」(1997)

ダルヴァシ・ラースロー(1962)の「ヴェインハゲンの薔薇の木」(1993)

クラスナホルカイ・ラースロー(1954)の「戦争そして戦争」

ボドル・アーダーム(1936)の「シニストゥラ界隈」

ガラツィ・ラースロー(1956)の「眠りのない」(1992)

マールトン・ラースロー(1959)の「ガラスの中を渡る」(1992)

タル・シャーンドル(1941)の「我らの通り」(1995)

今回はタル・シャーンドルの作品について

タル・シャーンドルは紹介にも記してある様に1941年デブレツェンの北にあるハユドゥーシャームソン生まれ。工業専門学校を卒業後92年まで医療器具工場で働く。91年から「ホルミ」の編集部員。作家になったいきさつは、あとで紹介する「裏切り者」に書かれているように、懸賞に応募しなったようである。

「我らの通り」(1995)

デブレツェンに近い村の端にあるゲデレ通りに住む住人たちの生活。31編の短編。内タイトルに住人の名前が付いているもの9編。30〜40軒の家がある。住人の半分近くは年金暮らしか失業保険で生活している。バス停の前に居酒屋があり生活の中心。朝5時半に開店を待ってベーレシュ(70歳4年前妻なくす)がワインを飲みに来る。コップの方に頭を傾け、両手で口のほうに持っていき飲む。足も震えている。ヘス・ヤンチ(失業者)は外でタバコをすってから入ろうとしている。シュダーク(昔民族舞踊家)は外套の下に2リットルビンを隠し、ワインを付けで買いに来る。ヴィダ(妻に死なれ、癌の息子の世話をしている)は息子のためにワインを買いに来る。毎朝、この居酒屋から生活が始まる。

「ヘス・ヤンチ」の一部

「ヘス・ヤンチには嫁さんのいる息子と、亭主もちの娘、二人の小さい孫、かみさんと姑がいる。姑は同じ敷地内の台所付きの一間の家で暮らしているが、始終こっちに来ていて、なんにでも口を挟む。ヘス・ヤンチとかみさんが何回寝た、時々は、小さい男の子と寝てもいいのに、あの子だって母親の温もりがいるだろうから、とか。かみさんは協同組合の事務所で働いているが、何をしているか正確には知らない。そこの連中が盗みをしているのは確かさ。ピロシュカに何もかも喋っているが、誰もいずに、聞く人もいない時だけのこと。誰にも話さんでくれね、頼むよ、恥ずかしい事だ。ここで起こっている事は。協同組合は崩壊している。何もかも売り払っている。山林を、森を伐採させ、家畜小屋を解体させ売却している。村の噂では、農機械センターでも機械の大半を分けて、それを農業技師のカーシャーシュと他の3人ほどが安く買い取り、そのあと、組合の2千ヘクタールの土地を見立て、株式会社を作り、メロンを栽培するらしいとのことだ。」

協同組合の崩壊とKFT設立という内容、その他から80年代の村の社会を描いているように思える。ゲデレ通りは舗装されていず、車は近くの牧師館から来る牧師ヴェーグシュー・マールトンの乗るトラバントしかないようなので。男性は40才から70才代で、村を出て町(デブレツェン)の工場で働き、解雇されたり、負傷したりでまた村に戻り、飲んだくれて無為な生活を送り、妻は飽きれて家をでるか、男をつくったり、または文句をいいながら同じようにどうしようもない生活を共にしている。どのみち、もうじき死ぬのだから、と。その息子・娘たちも同じ人生をたどり始めている。牧師の言葉を借りれば誰も教会に来ないで、酒を飲み、騙しあい、罵倒しあい、ナイフを取り出し喧嘩し、子どもたちを駄目にし、それも厭きて静まり返るだけの人々。

ソシオグラフィ(社会誌学)的にタニャの生活を描いたものが、この我らが通りで。どうしようもなく、ぼろぼろの現在の生活、過去の人生の断片を語り手の著者、村人たち、主人公たちが簡潔で、素朴な言葉で淡々と語っている。ソシオグラフというと、イエーシュ自身の一人称の語りでハンガリーの民を壮大に描いている「プスタの民」があるが、こちらは村人たちが自分たちの口でタニャの生活を語る、それでも叙事詩であると思う。見捨てられた人々を描くという点では、ハンガリー映画祭で映画監督のタル・ベーラが言った「僕は見捨てられた人々を撮り続ける」という言葉が記憶に残る。

一番新しい作品は「ノーラが来る」で、これは、「6714番の人物」(1981)「なぜ蜘蛛にとっていいのか」(1989)「おまえの国」(1993)から選んだ作品に「ノーラが来る」を付け加えたもの。「ノーラが来る」の中に「ゆっくりとした重荷」中の、4編が入っている。舞台は村、工場、に加え「C病棟」「ノーラが来る」では精神病棟になっている。

評論家 カールマン G ジェルジュによる作品分析

タルの本の頁を捲ると、ダッシュで始まったり、引用符で区切られた対話文が全くないことに気づく。この自由な、間接話法(style indirecte libre)の語りは多くのヴァリエーションでタルの作品の中に見られる。時によっては、完全に、フィクションの世界で語られる言葉の伝達であり、ただ、それが話者(筆者)の文章の中に組み込まれているだけのことだ。場合によっては、内面的会話の回想のこともある。展開によっては、たぶん話者があたっているのではないことを、言葉が示す事もある。、、、、、タルの作品の中には全てを知る語り手はいなく、登場人物と共に語るものがいるだけで、語り手は絶えず言葉を伝達し、モチーフを探すのも話者でなく、登場人物が見つけたり、隠したりする。作者は世界の創造者であり、鋳型への注入者でもある登場人物の言葉を取り込み、彼らと共に世界を見て、世界を読者に見させようとする。

タルの作品構成の重要な要素(手段)は繰り返し(反復)である。文章だけでなく、行為の中でも。繰り返しは絶望、偽りの確実性、機械性、非人間性、怠惰、鈍感、悲しみである。なにかによって、ほとんど融解されることはない。それでも、何かが起こり、さらに、それはいずれ習慣性のなかに沈んでいき、全てが今までより悪くなる事があるとしても。恐らく、二人は再びお互いを見出し、誰かが誰かと共に話し、受容し、自分たちの会話を表示する。自由の欠如を理解し、頼らずに。自由に、でもお互いに頼って。

タル・シャーンドルとケネディ・ヤーノシュの書簡

1981年から89年の間に出版された作品がないが、この理由はaz Elet es Irodalom 1999/45.に書かれているタル・シャンドルトとケネディ・ヤーノシュの書簡の中に記されている。この間、タルは政治警察の通報者・密告者にさせられていた。ケネディ・ヤーノシュはサミダス(地下出版)の編集員だった(具体的にどこのはまだ調べていない)。タルのケネディへの書簡によると、政治警察から通報者の役割を強制させられた具体的な理由は述べたくないといっているが、(これは、http://www.litera.huに連載されているタル本人の Film Regeny  “Az Arulo” で明らかにされるであろう)”Profil” への参加による脅迫、後に“Beszelo”も関係しているようだ。Profilはわからないが、“Beszelo”では1986年、キシュ・ヤーノシュらが ”Tarsadalmi Szerzodes” を書き、カーダールに政治から退去し、カーダール時代の“社会契約”を再交渉すべきだと唱え問題提起した。(*共産党権力下では国家と市民は社会契約を結び、国家安全のため反体制的な組織を作らせないよう、市民に通報と密告を奨励する。)民主フォーラムが成立したのが1986年。

インターネット連載の“ az Arulo “ について

Az Arulo ”は今年3月31日からインターネットで連載されていて、10回目まで来ている。ショーヨム・ゾールタン(Tar)1950年アルフェルドのタニャに始まる子ども時代と1977年追跡者が学校・職場でショーヨムについて情報を聞き出す場面が交互に書かれている。1956年寄宿舎から見た動乱の様子・学生間の行動。寄宿舎の寝室での男子学生との同性愛的場面、事件も含めて。